僕のアホ道 #2『福山玉太郎降臨~幼少時代』

2017年6月25日

1973年(昭和48年)10月12日     東京都三鷹市にある杏林大学病院にて
福山 玉太郎 
はこの世に降臨した。

体重3100グラム、身長50センチの元気なベイベーであったらしい。

当時、会社員をしていた父 保憲、専業主婦の 母 行子の長男として生まれ、3歳までは自殺の名所で有名な、東京都板橋区にある高〇平団地で育った。

僕は絵にかいたような、普通の一般家庭に生まれ、そして育てられた。

おぼろげに当時の記憶として、夜な夜な団地に鳴り響く救急車のサイレン音と、点滅する赤色灯の光が脳裏に焼き付いている。

3歳の時に、今の実家がある千葉県の新松戸に引っ越した。

現在では、14階建てのマンションが立ち並び、ダイエー等のショッピング施設や数多くの店舗が隣接しているが、当時は一面畑や雑草地だった記憶がある。

そこで、僕は約20年間、幼少時代、多感な中学、高校、大学時代と生活を送り、現在居住している長野県に移り住むこととなる。

僕は、新松戸に引っ越した後、地元の新松戸幼稚園に通った。

記憶にあることは、
登園中、工事中の6階建てのビルから、大きなべニア板が落下してきて顔面に直撃
自宅のベランダで転倒して植木鉢に顔面を激突し、眉間の下に大きな切り傷を負ったりしたことである。

その傷は、今でも男の勲章として、僕の顔に刻まれている。

とにかく、幼少時代は自分がいい悪いにかかわらず、怪我が絶えず、悪ふざけが過ぎるちびっこであった。

例えば、幼稚園でバナナがおやつに出ると、皆がバナナを食べている中で、僕は悪ふざけをしてバナナの皮を食べて先生に怒られていたらしい。

母が、当時の僕を語るとき、「悪ふざけがひどく、とにかく恥ずかしかった。」という。

僕には当時の記憶ははっきりとはないものの、母親に「けんたろう!いいかげんにしなさい!」と何度も叱られていた記憶だけははっきりと覚えている。

小学3年生の時、テレビ漫画で「キャプテン翼」がはじまった。

あの有名な「ボールは友達」のサッカー漫画だ。

野球からサッカーをやり始める友達が増え、流行りものに影響を受けやすい僕もサッカーを始めた。

当然、影響を受けやすい僕は、サッカーボールともすぐに友達になった。

僕はサッカーボールといつも一緒だった。

寝る時も、トイレに行くときも、外に買い物に行くときも、塾に行くときも、どんな時もどんな時も。

僕が僕らしくあるために。

小学校6年生になり、家の近くにある「ベンリー」というコンビニエンスストアで立ち読みをしていた。

もちろん友達のサッカーボール君と一緒に、ボールに座ってサッカーダイジェストという雑誌を立ち読みしていた。

しかし、サッカーダイジェストはカモフラージュで、当時有名だったシュガーという名のエロ本を挟んで読んでいた。

ボールに座って、僕はシュガーに夢中になっていた。

僕は、頻繁にベンリーに訪れ、シュガーをサッカーダイジェストに挟んで読んでいた。

ある日、店員に椅子代わりに座っていたサッカーボールを蹴られ、僕はダルマ落としのようにひっくり返った。

手にしていたサッカーダイジェストに挟んだシュガーは無残にも床に落ちてその姿をあらわにした。

店員のおじちゃんに「子供が毎日こんなもん見ちゃいけないよ!ずっと知ってたんだからね!」って怒られた。

サッカーボールが友達の自分の姿が、一段とその行動を目立たせてしまっていたのは明白であった。

その様子を、当時1年上の林君に見られてしまった。

それから僕のあだ名は、「シュガー玉木」になった。

時に、「おい!ベンリー!」って呼び捨てにされる時もあった。

この時の出来事が影響して、僕は中学校時代サッカー部で先輩にいじめられることとなった。

自業自得ではあるが、ほろ苦い小学生時代の思い出であった。

もう一つビターな思い出がある。

当時一世を風靡したおニャン子クラブが流行ったのもこの時期だった。

僕は自分の部屋で夕焼けにゃんにゃんを見ていた。

なぜか僕はズボンを脱いでテレビを見ていた。

がちゃ!!っと部屋のドアが突然開いた。

けんたろう!あんた何やってるの !!!」と母の怒鳴る声に飛び跳ねた。

とっさに出た言葉、「お、お、お母さん。お尻かゆいからかいて」…最低の切り返しだった。

小学生時代はある意味甘酸っぱい思い出でいっぱいであった。

目立たず平凡な小学生であったが、やっている事は十分非凡であった。

そして、僕は中学生になり、大人の階段をのぼった。

シュガー玉木が誕生した12歳までの出来事と、甘酸っぱい経験である。