僕のアホ道 #3『福山玉太郎 中学時代 前編』


新松戸南小学校を卒業し、新松戸南中学校に入学した。



そして、中学校生活が始まった。

小学生の時に大好きだった女の子には相手にされず、かつ「ベンリー」での失態を林先輩に見られてしまった僕は、行き場のない苛立ちと虚しさを抱えていた。

このままではいけない。。。中学に入ったら「変わろう!」と強く決意していた。

中学に入学した僕は、入学後のオリエンテーションで「学級委員」に立候補した。

そして、希望が叶い、晴れて学級委員として中学1年生がスタートしたのであった。

気分は、アメリカ合衆国の大統領になった気分であった。

部活は当然サッカー部に入部した。

しかし、サッカー部にはあのベンリーでの一件を全て見ていた林先輩がいた。

彼は入部した僕の顔を見て、薄ら笑いを浮かべていた。

僕の心と体を全て支配するようにも見えた。

学級委員を手に入れた僕は、彼のことを抹殺すればベンリーでの一件をこの世に広める人間はいないと本気で考えていた。

しかし、願いむなしく入部の翌日に先輩達から、「シュガー玉木」や「おう、ベンリー!」と言われ、自他ともに認める素敵な学級委員像はむなしくも数日で音を立てて崩れていった。

ベンリー&シュガーを認識されてしまった僕にはもう学級委員は似合わなかった。

先輩たちから、ベンリーやシュガーと罵倒され、いつしかベンリーがあだ名になった。

それも周りに徐々に知られ、僕は変態な学級委員とみられるようになっていった。

心無い先輩達の言葉に、心は疲弊し、少しずつ心を閉ざし口数も少なくなっていった。

そして、あっという間に1年が過ぎ僕の中学1年は幕を閉じた。

中学2年になって1カ月が過ぎた時、人生の大きな転機となる事故が起きてしまった。

「ドカーーーンッ!!」

顔面にものすごい衝撃を受けた。

僕はしばらく気を失っていた。

サッカーの練習中に後輩が蹴ったサッカーボールが至近距離で左目に直撃したのである。

あまりの衝撃で、顔を蹴られ、頭が胴体から離れて飛んでいくような感覚であった。

僕は救急車で病院に搬送され、緊急入院となった。

左目が、みえない。。。。

痛む左目で必死にものを見ようとしても、黒い液体が目の前をうごめき、ほぼ完全に視界を覆っていた。

心配して駆け付けた両親が、先生から説明を受けたようで泣いていた。

「手術をしないと、最悪失明するかもしれないと言われた」と父が言った。

その為にも絶対安静で、約1か月間顔を左下に向け、極力動いてはいけないと言われた。

毎日、1日2回左目の眼球に注射を打たれ、トイレと食事以外は顔を左下に向けて寝ていた。

毎日行われる眼球の注射と、同じ体制で保たなければならない苦痛に発狂しそうになった。

苦痛の時間が積み重なり、何とか1カ月が経過した。

先生から、「網膜剥離にはならなかったので、眼球を取り出しての手術や失明の危機は免れため、レーザーで穴をふさぐ手術をする」と言われ手術を行った。

それからしばらくして無事退院したが、左目半分の光を失い学校に再び登校した。

約1か月半の間、今まで味わったことのない苦痛を経験し、視界も半分となり、これからの希望を失い自暴自棄になっていた。

好きなサッカーもしばらくできず、学校の授業にも付いていけず、自分だけ起きた突然の災難を恨みその憤りがどんどん膿のようにたまっていった。

僕は、家に帰ると部屋に閉じこもるようになった。

親が声を掛けるたびに苛立ちを覚えた。

部屋の壁をこぶしで殴りつけたり、大きな声で発狂して親に反抗したりした。

僕は、自分の抱える感情を自分の中で抑えられなくなってしまっていた。

最初は、家庭内だけの負の感情が、学校生活をしていても出てくるようになった。

1年生の時のまじめな僕とは全く違う僕が姿を表してきたのであった。

中学2年生 14歳 の時のできごとである   

(中学生後編につづく)

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福山玉太郎

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